2024年7月10日
幸福実現党政務調査会
長崎県大村市の「同性カップルへの住民票記載」に対する党政調会見解
本件の概要
長崎県大村市は、本年5月に男性同士のカップルに対し、住民票の続き柄の記載を「夫(未届)」とすることを認めました。「夫(未届)」とは、これまで事実婚に対して記載していたものであり、同性カップルは「同居人」や「縁故者」(パートナーシップ条例等が制定されている自治体のみ)として記載されてきました。今回の大村市の対応を受けて、申請を行った当事者は「同性間の事実婚が行政上の書類で認められた意義は大きい」と述べています。
一方で、市は当事者の関係を「内縁の夫婦に準ずる」と判断しつつも、「同性間の事実婚」については認めてはいません。通常の事実婚の場合、社会保障などの権利も認められていますが、そうした事実婚と同等の権利の保障はできないという立場です。
今回の事例は、全国で初のことであり、既に多くの自治体に波及し始めています。例えば、東京都では世田谷区や杉並区が6月時点で検討を開始しました。また7月には神奈川県横須賀市や栃木県鹿沼市、香川県三豊市が実際の運用を開始しました。
こうした動きに対し、総務省は「実務上の支障をきたす恐れがある」などとする見解を示しました。同省の見解に加え、今回の大村市の対応には多くの問題があり、幸福実現党政調会として特に4つの問題点をここに提示いたします。
問題点①「法の支配」の欠如
―住民基本台帳法の目的を無視―
まず挙げるべきは、同市が住民基本台帳法の目的に反する記載を行ったことです。住民基本台帳法には「住民に関する記録を正確かつ統一的に行う住民基本台帳の制度を定め、もつて住民の利便を増進するとともに、国及び地方公共団体の行政の合理化に資することを目的とする」と定められています。この「正確かつ統一的に行う」という制度の目的を鑑みれば、住民票の記載は国全体での統一的な事務手続きを行うべきことは言うまでもありません。
しかし、同市は総務省と事前に相談することなく、本記載を行ってしまいました。こうした措置は、正確性と慎重さを欠いており適正な措置だったとは言えません。
そもそも「夫(未届)」の記載は、社会保障の制度運用上の必要性からのものであると考えるべきです。総務省通知の「住民基本台帳事務処理要領」によれば、事実婚に対する「夫(未届)」という記載について、「法律上の夫婦ではないが準婚として各種の社会保障の面では法律上の夫婦と同じ取扱いを受けているので『夫(未届)・妻(未届)』と記載する」としています。つまり、必要な社会保障サービスを行うための「ラベル」として機能していると考えられます。
そうした事情を無視した今回の記載は、事務処理要領の趣旨から逸脱しており、住民基本台帳の求める「正確性」を欠いたものです。そして、本記載が広がれば、大きな混乱を引き起こす恐れもあります。実際、馬場成史 総務副大臣は、本年5月29日の衆議院 法務委員会で「定義と異なる用いられ方であれば、実務上の課題が生じるのではないか」と述べています。
なお、本件についてのマスコミの報道姿勢も、極めて悪質と言わざるを得ません。「住民基本台帳事務処理要領」における事実婚の記載例については報道しますが、「各種の社会保障の面では法律上の夫婦と同じ取扱いを受けているので」という肝心の理由については報道しません。6月20日付の中国新聞では、この点について明示していますが、いわゆる六大紙では報道されていません(7月7日時点)。
こうした正確性の問題だけでなく、本記載は住民基本台帳の「統一的に行う」という規定にも明らかに反しています。こうした記載が全国的に広がれば、各自治体で住民票の記載が異なることとなり、住民票の異動手続きなどで混乱が生じることも危惧されます。
住民基本台帳法が「正確性」と「統一性」に目的を置くのは、こうした問題が生じないようにするためであったと考えられます。従って、市の今回の対応は極めて浅薄であったと言うべきでしょう。
そして本件の市の対応は、単に浅薄であったのにとどまらず、「法の支配」を無視する非常に危険な行為でもありました。園田裕史市長は、住民基本台帳事務処理要領について「記載例の在り方が時代錯誤だ」と述べています。つまり、「おかしいと思ったら法律など無視してもよい」ということです。
古くは、プラトンの師のソクラテスが『クリトン』において、「たとえ不正がなされても、これに対して不正で応じてはならない」という「正義の原則」を説きましたが、「ルールがおかしい」と思ったなら、適切な手段を取って変えていくべきであり、「目的のためなら手段を選ばない」という発想は問題があります。
問題点②「議会制民主主義」の軽視
―脱法行為で事実上の立法を狙う「行政の暴走」―
さらに言えば、今回の措置には、「同性婚を法制度化したい」という動機も透けて見えます。今回の記載を認めた園田市長は、パートナーシップ宣誓制度を推進しています。LGBTQについて「互いに認め合うということが柱で、パートナーシップ制度の導入についても進めていきたい」と述べたり、本記載に関し同性カップルを「内縁の夫婦に準ずる」と判断したりしています。
仮にそうした動機が無かったとしても、今回のような措置を行えば、法改正をされることなく、事実上の同性婚がなし崩し的に認められていく恐れが出ています。実際、当事者が「法的メリットを享受できる可能性が出てくる」と喜んだり、6月24日付で「沖縄タイムス」が「同性カップル事実婚表記/権利保障へ重要な一歩」という社説を掲載したりしています。
つまり、これは単なる記載方法の問題ではなく、「同性カップルをどう考えるか」という哲学の問題であり、これは立法の範疇に属します。思想や哲学に基づいて法律が制定され、その法律に則って行政が行われるのです。しかし、大村市の場合、法律に先立つ哲学の部分を、市が勝手に判断して記載を行ったわけです。これを「行政の暴走」と言わずして何と呼べばいいのでしょうか。
本来の議会制民主主義では、「複数性(プルラリティ)」から成り立つ国民が、「必要な議論をきちんと戦わせ、そして結論を導き、一定の結論が出たときに納得する文化」をつくり上げていくことが、非常に大事です。これは、同性カップルの問題についても同様のことが言えます。大村市は、こうした観点を軽視し、市の独自の哲学で記載を進めてしまいました。こうした発想は、民主主義に仇を為すものだと言わざるを得ません。
なお、大村市議会の議長は、本件に関して「全く問題ない」と述べていますが、「民主主義の学校」とも言われる地方議会の長としては、甚だ不適格です。市長と併せて早急に辞職されることが「日本の民主主義のためである」と考えます。
問題点③ 日本的「空気の支配」
―多数による社会的専制を生み、民主主義を破壊する―
しかし、「法の支配」や「議会制民主主義」を軽んじるのは、大村市に限った話ではないでしょう。日本独特の「空気の支配」があり、これが日本で健全な民主主義を育むことを阻んでいるのです。
本来、今回の件については、LGBTQそのものへの賛否を問う前に、その手続きの在り方について問題視されてしかるべきです。
しかし現実には「性的マイノリティに対して、マイナスなことを言ってはいけない」という空気が支配し、それら2つが混同され、手続き論の問題ですら、指摘がはばかられる状況となっています。大村市の六月議会では、一部議員から「意思決定の手続きを改めて整理することなどを求める決議案」が提出されるも、それが取り下げられました。この事態は、まさに日本の地方議会が「空気の支配」を受けていることを如実に表していると言えるでしょう。
そして、この「空気の支配」とは、姿を変えた「専制」に他なりません。山本七平は「『空気』とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である」と述べています。民主主義を深く洞察したフランスのトクヴィルは、民主主義が「多数者の専制」に陥る危険性を指摘しましたが、女性の権利擁護を訴えたことでも知られるJ.S.ミルは、この「多数者の専制」が、刑罰などが伴う政治的なものより、文化的要因で引き起こされる「社会的専制」のほうが、いっそう恐ろしいと指摘しました。
日本の場合、この社会的専制が「空気の支配」を通じて生じる危険があります。山本七平は、日本では、あるとき「成長」が絶対視されたかと思えば、次には「公害」が絶対視されるなど、絶対的価値基準が「空気」のように次々と移り変わることを指摘しています。
つまり日本では、そのときの流行りものが「空気」となって社会を支配するわけです。そして、その「流行りもの」は、少数の者が仕掛けることも可能であり、「LGBT」などの進歩的価値観を「空気」として多数者に浸透させることで、反論を封殺しうるのです。しかし、これでは必要な議論が失われ、民主主義は壊れてしまいます。
こうした現象が起きてしまうのは、日本が西洋のように、善悪の価値基準を持たないためです。ですから、日本に精神的主柱を打ち立てることで、「空気の支配」「悪しき妥協」を打破していく必要があると考えます。
問題点④ 「同性婚の法制化」による家族の破壊
―男女の意味の喪失は国家的危機―
最後に本記載に関して「LGBTへの法的支援」の観点からその問題点を提示いたします。
まず、「パートナーシップ条例制定の動き」は、最終的には「同性婚の実現」を目指す動きであると考えられます。日本の「パートナーシップ条例」は地方自治体による条例であり、諸外国の「パートナーシップ法」と比べると同性カップルに対する法的保護が弱いものです。しかし、イギリスでは2001年にロンドン市で同性カップルの登録制度が導入され、2004年に国全体でシビル・パートナーシップ制度が制定され、2014年までに同性婚が合法化されました。イギリスでは、こうした過程で、同性カップルの法的保護が強められ、最終的には異性婚と同等の権利が認められました。
しかし本来、同性カップルの権利保護を異性婚と同等に認めるべきではありません。なぜなら、結婚とは、必ずしも私的な関係だけのものではありません。「家庭は社会の最小単位」と言われるように、そのはじまりとなる結婚は社会的な性質を持つものとみなすべきです。
そして家族は、倫理観を身に着ける場であり、次の世代の子供たちを教育する公的な場であるのです。ドイツの哲学者ヘーゲルは『法の哲学』において、「家族とは、普遍的で永続的な人格である」として、家族を形成することで、それまで欲望やエゴイズムに基づく個人の資産が、配慮を必要とする共同財産となり、倫理的なものへと変わるという趣旨のことを述べています。
こうした理由から婚姻制度には、特別に権利が保障されています。例えば、配偶者控除や相続税などの税制上の優遇です。また、それに呼応するように「同居協力扶養義務」「貞操義務」など、さまざまな義務も課されています。こうした観点をなおざりにして、同性カップルの権利拡大を唱えるべきではありません。
もちろん、幸福実現党は同性カップルの自由は守りたいと考えます。同居権や相続税などの財産権に関しては「自由」が尊重されるべきです。幸福実現党は、同性カップルに限らず、そもそも「相続税」と「贈与税」は廃止すべきであると考えています。
しかし、「同居権や財産権の問題と、結婚の定義とは別だ」と考えるべきです。結婚とは、先ほどの公的な保護の必要性に加え、精神的な観点からもその必要性を見ることができます。人間は、魂自体の尊厳を持って、己の魂をさらに磨いていかなくてはなりません。過去のステップを生かして、さらに高度なるものをつくっていかなくてはなりません。
その出発点は、家庭のなかの大調和です。家庭にユートピアをつくることです。子どもたちと共に、素晴らしい世の中の建設のために生きていくことは、小さく見えるかもしれませんが、実は大きな大きな力なのです。家庭の調和というものが人生学校のなかの大きな部分であると言えるのではないでしょうか。
こうした観点を無視し、LGBTQの安易な権利拡大を進めれば、「家族」は壊れ、ひいては社会や国家そのものを破壊していくことにつながると考えます。
以上